モンテッソーリ教育とオンラインスクーリング

ミラノの街角新緑が美しい季節ですね。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、前回はイタリアでのコロナウィルス蔓延状況下で、私たちのモンテッソーリスクールがどのような形で非常事態に対応し、オンラインへの授業へ移行していったかというお話をしました。今回は、15歳になる私の息子の話、イタリアの高校のオンラインスクーリングについて、また、オンラインスクーリングの現場の様子と、私が感じるモンテッソーリ教育におけるテクノロジーの限界と可能性などをお話ししたいと思います。

さて、ここミラノでは、理数系の高校生になった息子も、パンデミック危機が始まった1週目からオンラインで授業を受けています。息子の通うミラノ市内の私立高校では、朝8時には出席を取られ、通常の時間割通りに授業が進められています。15歳になる息子は、コロナウィルスによる都市封鎖以前は、朝7時に毎朝家を飛び出ていく生活でしたが、息子の学校も全てがオンライン授業になり、朝は早起き、朝食後は自分でベッドメーキングもきちんとして、8時にはコンピューターの前に座っています。不安定な中でも秩序のある暮らしの中心に学校があり、学びがあることに息子も大いに励まされています。

イタリアの高校では、ロックダウン初期から、オンライン化された授業を行っています。6月の第1週目には長い夏のバカンスが始まるので、今年はオンラインのまま学年末を終えます。ちなみに学校にもよると思いますが、息子の場合、試験は口頭のみ。筆記試験はなく、高校では9月に再試験を行うそうです。この間、ミラノのお隣の町ベルガモでは、数百人の死者が何週間も続出しました。イタリアでは毎日夕方の6時になると、その日の検査数、感染者数、回復者数、死者の数が専門家チームの会見で発表されるのがとても印象的でした。国家の危機中にあるときも冷静に秩序を立てて科学的な根拠により行動するとはこういうことなのだと、改めて思いました。

子供の絵
「大丈夫、きっとうまくいく!」

当時、イタリアでは世界で2番目といわれたほど多数のPCR検査が行われていました。人口千人当たり34.88人(5月2日)。ロックダウンは2か月目続きました。この頃、国民は皆そろそろ都市封鎖の効果を期待しながらも、現実は厳しいものでした。家族に看取られることもなく、たった一人きりで大勢の人々が命を落としました。最愛の人に最期のお別れもできず、お葬式さえもできずに亡くなった方が大勢いらっしゃいます。第一線の医療従事者も必死であったと思います。イタリアは深い傷を負ってしまいました。由も悪しもコロナウイルスが社会全体を大きく変え、私たちの健康への認識も、昨日とは確実に異なるものとなりました。

それでもイタリア人は明るく、都市封鎖(ロックダウン)中にも、バルコニーを舞台のようにしてオペラを歌ったり、楽器を弾いたり、医療従事者に感謝の念を込めた拍手を毎晩夜8時に各家庭のバルコニーから贈り続けました。子どもたちもそれぞれの家庭でこのような現実を生きていたと思います。イタリアでは、自己表現することや芸術性が暮らしに溶け込んでいるのです。イタリア中の子どもたちが虹の絵を描いて、「大丈夫!きっとうまくいく!」と誰もが不安定な最中にあってもお互いに皆が笑顔で励ましあっていました。

モンテッソーリのオンライン授業子どもたちには素晴らしい適応能力があり、吸収する精神(頭脳)があるのです。もちろん、モンテッソーリ教育において、このようなバーチャルな世界での教育は、緊急時だからこそ対応していますが、本来は理想的でありません。私たち教育者も限界を感じています。でも、パンデミック危機にあっては、自分たちのモンテッソーリの世界という箱を出て、外から架け橋をかけないといけない時もあるのです。

例えば、「オンライントーク」の時間にあることがきっかけで、ちょっとした事件がありました。子供たち3人と先生2人の小さなグループにて、ある5歳の男の子が自分の話す番になったときに、スクリーンの前でうつぶせて泣き始めたのです。「こんなのは、いっしょにいるんじゃない!」と。

子供の言葉はなんて素直なのでしょうか。私はいつも心救われる思いがします。

本当にしかたのないことです。家庭には教具もなければ、整った環境があるとも限らない。その瞬間に「はっ」としたのです。子供の心とはそういうものです。コミュニケーションや関係性はロックダウン中も続いて生きています。私たち教師も先の見えない不安定な中、ITの専門家でもないのに一夜でオンライン上のカリキュラムの作成を求められ、親たちの心理セラピストになることを望まれ、事務の仕事であるペーパーワークも増えて、昨日までの現実とは程遠いところで同時に自分たちの家族とも、このパンデミックを生き延びるために戦っているのです。

オンライン授業のマテリアル
オンライン授業のマテリアル

「こんなのはいっしょにいるんじゃない!」そう。子どもの心はいつも一緒にいたいのです。大好きな先生やお友達といつも寄り添いたい。一緒に学びたい。一緒に遊びたい。一緒に泣きたい。一緒に走りたい。一緒に成長したい。その晩、私はその男の子のお母さんにメッセージを送りました。彼の涙は純粋な子供の精神そのものでしたから、そうせざるを得ませんでした。

そもそも学校とは一緒に生きる場所であって、共同体。コミュニティーです。子どもの気持ち。子どものこころがちゃんと存在するのです。そもそも私たち大人は知ったかっぶりをするのではなく、間接的、もしくは無言のうちにも子どもから発せられるサインを敏感に感じ取り、言葉や動機から何を優先すべきかという本質をくみ取っていく必要がある。家から一歩も出られない状況では、確かに相手に触れられないし、「HANDS ON EXPERIENCE(実体験が伴う自らの手や頭、こころを使った経験)」も何もありません。スクリーンの中で泣いた子供を抱きしめてあげることもできないので、私も途方にくれました。自分にできることに集中しようと思いました。でも、だからと言って、何事もあきらめるわけにはいかないのです。今までとは、違う方法でお互いの心に触れることはできるはずです。

私たちモンテッソーリ教師は、かつて子どもを観察して、子どもの驚きや発見や喜びのリアルな目撃者でした。彼らの成長が大きな喜びであり、道しるべでした。しかし、このようなパンデミック危機にあっては、私たち教師でさえ、スクリーン上で子どもに触れようと必死になっている。その現実を受け入れるしかないのです。

このような状況で見えてきたモンテッソーリ教育におけるテクノロジーの限界と可能性を私は否定せずに冷静な視点で今、考えています。それは新しい体験であり、常に学びを示唆しています。新しい未来への提案でもあり、架け橋でもあります。このような緊急時において、何もしないわけにはいかないという現実。私たち教育者が一心となり、親や家族を支えて、途切れることのない生命活動への援助を行い、子供の本質と絡み合うときに生まれる新たな価値観もある気がするのです。新しい人間とは?受動的な受け身な人でありません。待っていても何も始まらない。自らの頭で考え、こころで動き、手で作り出していかなければ!能動的な市民であること。その意味を今回、深く実感しました。

「最大の危機は大きな成長へのチャンスですよ。」と先日、恩師であるモンタナーロ先生が夢枕に立ち、優しく囁いてくださりました。社会的距離とは、人間が人間らしくあることに対する一種の攻撃のようにも取れるのです。でも、人間には崇高な精神があり、最新のテクノロジーをもって、全世界が協力すればワクチン開発もきっとできる。今、この原稿を書いている5月18日現在、イタリアではロックダウンが段階的に封鎖を緩和しつつあります。第二の波もあるはずなので、まだ油断はできません。でも、変に恐れることなく、必ず、乗り越えられるはずだと信じて前進しようと思います。

取材の様子
イタリアのテレビ取材の様子

そして、イタリアでは学校再開が9月となることが正式に政府より決定されました。先日教育省のトップが、「いろいろなメソッドを検証しているが、群れない学びを主にするモンテッソーリ教育法が一番良いかもしれない」とテレビの会見で発言していました。その影響か、翌日には我が校もテレビの取材を受けました。個人を育てる教育。イタリアでも再び、モンテッソーリ教育に注目が集まっています。

スクリーンを通して感じられる子どもの心。教育者とは、他者のニーズを敏感に感じ取り、共感のこころを持ち合わせ、自分自身や他者の真実により近づいてより善い存在になるために貢献する者ではないでしょうか。私自身も新たな可能性や限界を感じる中で、もう一度原点に戻って、歩んできた道を見つめ直し、をここからの道を再確認していきたいと思います。

目に見えない敵との長い戦いです。共存できるまで寛容でいられますように。大げさなことではなく、それは今、世界中で誰もが考えて自身の価値観を見つめなおす作業ををしていることでしょう。日本の皆さまも欧州ほどの厳しい封鎖ではないにしても、皆それぞれ自粛の期間に考えることがあったのではないのでしょうか。

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