モンテッソーリの環境について


ミラノより、こんにちは。

イタリアでは、パスクア(復活祭)を迎える季節になりました。街中のお店にチョコレートのイースターエッグやコロンバと呼ばれる平和を象徴する鳩の形のケーキが飾られています。ミラノ大聖堂に隣接するガレリアでは、洋菓子屋の老舗、Marchesi(マルケージ)の美しい作品である卵たちが並んでいました。ここまでくると芸術の領域です。職人が丁寧に心を込めて作り上げる、お菓子のその洗練さや完成度の高さに息を飲みました。

ショーウィンドウに並ぶカラフルなイタリアの復活祭のお菓子

モンテッソーリの環境でも、この季節には、子どもたちに季節のお仕事を豊富に用意しています。子どもというのは、生まれた場所、国、文化を吸収して、その土地の人間に育っていきます。人格とは、運命なのかもしれません。それならば、豊かな文化を明け渡したい。美的な視点でみつめたい。更に深く見据えることとができれば、視野の奥行きがが広がります。

モンテッソーリの先生は、子どもたちが一人一人紡いでいる独自のストーリーの観察者であり、語り手であり、援助者です。そのような態度で接していると、温かい信頼関係が子どもとの間に自然に芽生えます。その「信頼できる」という感じこそが、子どもの発見への出発点なのだと私は思います。

 

モンテッソーリの学校では、クリスマスにはクリスマスの、イースターにはイースターの季節感溢れる「お仕事」がアートのコーナーに並びます。

モンテッソーリの環境は、作り手の繊細な感受性や観察力がものをいうものです。知性の中にある柔らかな感受性を育てることに意識が開かれた環境は、豊かな土壌と同じで穏やかさが空気に感じられます。人格の形成期である人生の初めの数年間にそのような環境の中で育つことがいかに大切か、子どもと関わる大人は、自身の子供時代からちりばめられたイメージのつながりとしての己の人生を想像力あふれる感受性で見ていく必要があります。

子どもたちは環境によって、イマジネーションを得ます。その想像性とは、環境との関係において成り立つもの。言うまでもなく、子どもたちは大人が世界に抱く希望に深く影響されます。私たち大人は、「世界にどんな希望を持っていますか?」こういうことを自問して、意識的に生きることがモンテッソーリアンの歩みには、大事だと思うのです。

なぜならば、世界は名詞でできているのではなく、動詞でできています。何かに興味を持つ、その何かに取り組んでいく過程で集中力が生まれ、実際に動き、さらに繰り返すことによってその行為は正確さを覚え、洗練度を高め、自己完成へと続いていきます。

中世のイタリアの神学者であり、哲学者であったトーマ・アキナス曰く、「美は動きを抱きしめる」のです。モンテッソーリのマテリアーレ(教具)は、一度に一つのことをじっくり向き合えるように科学的に設計されています。段階を追って、難しさが孤立化されており、一人一人が自分でできるように学びの余白が与えられています。余白とは、自分で発見できるという純粋な喜びです。大人から与えられるものに応えるだけではなく、自分で考えて、行動を起こし、変化を生み出していけるようになっているのです。

子どもに与えるものは、本物でなければいけません。美へと立ち返る人間性は、その幼児期に必要なものをすべて吸収するチャンスが与えられているからです。木は、どんなに高い木でも太陽の光に向かって伸びていくときは、下方へも同じように深く根を張っています。大地にしっかり足を立たせること。そのためのお手伝いが教育だと思っています。

まるで繊細な絵画のようなイースターエッグ

子どもの繊細な感受性と尊い精神に奉仕する、というような謙遜なベクトルを自らの内に見つけること、それがモンテッソーリアンを専門的にも人間的にも成長させます。この哲学の部分の理解なしに行われる実践は、力を持たないのです。

今、この記事を書きながら、私にモンテッソーリの哲学を教えてくださったイタリアの恩師たちのことを思い出しています。若き日のマリア・モンテッソーリ博士に直に学ばれた大先輩たちです。まだその息吹が根強く残る本場のイタリアでの数々の不思議な出会い。人生には誰が何を言おうが、美しい何かが存在しています。偉大な先人たちからお預かりしたバトンを私なりにきちんと次につなげていこう、そんな強い決心と温かい思いを胸に今年は、復活祭を迎えます。

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